不動産業界特化型制作会社サービシンク
> 働き方改革の結果「頑張るべき時に頑張れなかった」未来への対応のため「ポジティブに諦める」方法

働き方改革の結果「頑張るべき時に頑張れなかった」未来への対応のため「ポジティブに諦める」方法

2019/05/08 代表ブログ
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

2019年になり、一定量の有給休暇を従業員に取得させることが必須になりました。サービシンクでもバックオフィスのマネージャーが従業員にどのように取得してもらうか、を思案して方針を打ち出しています。

これも「働き方改革」の一貫ですが、この流れで進んとき、今までと全く違う「働き方」の考えにシフトしなければ、さらに10年後にはどうしようもなく取り残されてしまうのではないか?という一つの予想を書きたいと思います。

さらにその時代で生き抜いていくため、名村が実際に行なっている「ポジティブに諦める」考え方をご紹介します。

余談ですが、今回20,000文字を超えています。
個人的に「サイトとしてのページビューを稼ぐ」ために、一つの記事を数ページに分けるの作り方は嫌いです。ですので以前に書いた「「地頭がいい」人になるための最も簡単な方法を解き明かしました」同様とても長いかもしれませんが、お付き合いください。

「働き方改革」がもたらすかもしれない今後の働き方ですが、昨年にも近しいことを書いていました。

1秒でも早く考えておかないといけない「働き方改革」で到達するかなり残酷な未来と日本は本当に生産性が低いのか?そしてワークライフバランスの先。

ですが、それから約9ヶ月経って、昨年に書いていたことが顕在化してきているように思い、今回のテーマで書いています。

働き方改革で日本はどうなっていくだろう?

まず名村個人としては、昨年同様に今の「働き方改革」は上手くいかない、と思っています。

働き方の変化を受け、それに対して書かれたと思うこのブログ記事があります。

「45歳以上はリストラしたい」+「高技能の若者が欲しい」=「子どもが増えない」

ここで書かれていることも「働き方改革」を軸に考えたら、どう考えてもこの筆者の書いている通りにしかならないのです。

なぜなら「働き方改革」はそもそも「生産性を上げる」ことが錦の御旗です。ですので結果的に求められるのは「生産性」であり、それは最終的には定量評価に落とし込まれるはずです。

「働き方改革しました。GDP、GNPが下がりました」では通らないからです。
働き方の向上と生産性が連動するか?
GDPやGNPで分かる数値化されなければならず、労働者側の感覚的なもので「なんかゆるゆる無理せずと働けるようになった!」では通りません。

ですので、国から「無茶な残業はさせるな」という労働者側に受け入れられやすいオブラートに包み、「過剰労働にならないように国がしたよ」「休みもちゃんと取れるようにしたよ」として「だから働くべき時間にめちゃくちゃ集中して働いてね」、そして生産性が上がったかどうかを測るために「完全結果評価主義にするよ」というのが・・・今の流れの先ではないかな・・・と思っています。

最終的には「定時で上がれる」「決められた残業時間以上は働けないように国が指導する」が、仕事に対しての「結果」を出せていなかったら、年齢関係なく「リストラ」になってしまう状態にするのが「働き方改革」の目指しているところの実体のはずです。

「定時の間に結果が出せない=生産性が低い=優秀じゃない」という人を「定量」判断し、判断結果に対して給与を決める。なぜなら「給料は生産性に対して提供されるものだから」という大義名分を作る流れです。

しかし日本の文化は「頑張ってやる」という「途中経過」をおもんばかる文化でした。

これは「途中を頑張っていたら結果が上手くいってなくてもなぁなぁで許される」状態を作ってしまうので、「今の時代」でいえば良くないのかもしれません。

ですが、それを急に「結果主義」に変革したら、「急にそんな厳しいこと言われても・・・」と、ついていけない人が出るのは当たり前です。

そういった流れについていくのが難しい人へのセーフティーネットはないのか?と言われると、恐らく今がその「セーフティーネットの期間」のなのではないでしょうか。

「今のうちに、今後の社会の流れについけいけるようになってください」というのがここ数年という期間だと思っています。

45歳以上はリストラしたい願望?

前述のブログにもあるように大手企業の中には「45歳以上はリストラしたい願望がある」そうです。

この「45歳以上」というのは単なる結果の話で、実のところは、

「平均的に45歳ぐらいになると管理職になってきて、具体的な生産性が分かりづらくなる上に、『下積みやっと終わった〜♪』と思ってそれ以前に比べてしゃかりきになって成長しようという欲が下がる人が多い」

という結果から「これ以上の生産性向上が見込みづらい45歳以上をリストラしたい」になってるだけではないでしょうか?

しかしアメリカなどでは「契約における完全結果主義」はまかり通っていますし、それが履行されなかったら「即時解雇」も普通にあります。

このブログを書くにあたり、アメリカの大企業にいる友人に聞いてみたのですが、「大企業に勤めているから将来安泰」と思ってる人は、少なくとも私の友人23人には一人もいませんでした。(サンプルの23人は全員アメリカで従業員1000人以上の会社勤めです)

むしろ「日本人は未だに大企業に入ったら将来安泰と思ってるの?大企業ってそんなに面倒見てくれるの?」と不思議そうなコメントが返ってきました。

先程書いた通り日本はいま、過去の「途中経過の努力を認める」感覚から「完全結果主義」への移行期間だと思います。

これは世界が情報的な意味で急激に狭りグローバル化している昨今、如何ともしがたい変えられない流れです。

グローバル化を表すイメージ。世界が情報の伝達によって実際の距離以上に短く狭くなっていくことがグローバル化の本質

「グローバル化」とは、個々の企業が「海外進出する・しない」といったことではありません。あらゆるものが単独の国では済まなくなっている流れがグローバル化だと考えます。伝統芸能ですらゆっくりとグローバル化しています。原材料の入手先しかり、相撲の国際化しかり。

その流れの中で残念なのですが、旧態然とした日本の「働き方」が通じなくなってきているのです。

ですが、50代以上の「大企業に入って安寧を得られる権利」があると思っている、もしくは「定年まで逃げ切りたい」と思っている人たちが上にいる限り「途中経過の努力を認める」文化は現実的には無くなりません。

そしてその世代に育てられている30代から40代までもまた「途中経過の頑張りを認められないのを理不尽だ」と思う世代ではないでしょうか。

ではその過渡期である今、「頑張ってる途中経過も評価してよ」「でも残業はしない」を同時にした上で現状の労働基準法を準拠しようとしたら、どうなるか?

簡単です、企業側が音をあげるはずです。

今の労働基準法で考えたら、結果出してないからといって、即「リストラ」「減給」などは通りません。結果として、企業側は「結果を出せない」人を含めて雇用し続ける体力がいるからです。

私は2年ぐらい前から「働き方改革はアメリカとかと同じように雇用と同じく解雇の法令も変わらないと無理になるのでは?」といっていました。

これに近い話は、サービシンクの新卒採用の説明会でも大学生の人たちの向けて少し言葉を変えて同じことを伝えています。

「これから社会人になる君たちは、私(=名村)が社会に出た1999年頃よりもきっと厳しい時代になると思います。
なぜなら働き方改革が進んでいることで、より一層結果主義の時代になるからです。

仕事の「結果」というものが定量的に判断される時代になるので、自ら手を上げ結果を出すということができなければ、どんどん置いてかれてしまう、そういう時代で君たちは社会人1年生迎えなければならない。」

時代は変わったのか?!

これは「厳しい」であるとか「良い悪い」の話ではなく、時代がそういう流れになっているという単なる事実です。

こういった時代になっていることが、いいか悪いかは別としてこれが世の中の流れなので、この流れの中でどのように生きていくか?を考えていかなければなりません。

新旧切り替わりの時代の端境期

いつの時代でも「変化のはざかい期」にいる人は過去の自分にとって生きやすかった時代を回顧して「時代が変わった・・・」と言ってしまいがちですが、時代は「適者生存」で成り立っています。

私は94年にインターネットに出会いこの仕事を始めました。当時私より倍ぐらい上の年齢の方々は口々に、

「最近インターネットとかメールってのが出てきて、俺らみたいなのは今から勉強しないといけないんだけど、スピードが早すぎてついていけなくなるから、ホント困るわ・・・」

と言っていました。

「インターネットとかなくなったらいいのに・・・」という言葉もあちこちで聞かされました。全く同じことです。

社会人として生きぬいていくためには、こういった現在起こっている社会の変化の「微差」をいかにして感じ取っていき、その変化がどういった「大差」に繋がるかを予想し、いかに適応していくかということが求められます。

それはこれまでも同じだったのですが、その変化への「対応速度」がどんどん早くなってきているのが大変なところです。

現実的には一定数の集団においてはパレートの法則が働きやすくなるので「優秀な人だけの集団」は無理でしょう。
ですがそれと自分が「結果を出せている側」か「結果を出せていない側」のどちらにいるのか?は別の話です。「結果を出せていない側」にいて安心ができる理由にもなりません。

集団としては両者が存在せざるをえないが、残念ながら個々人がうける評価には優劣が絶対的に付いてしまうのです。

といったことを考えていたら先日、日本経済団体連合会の中西宏明会長がメディアに「終身雇用をこれ以上維持するのは無理」という趣旨の発言をしたことが大きくニュースになりました。

あの記事を見た多くの方が「何を今更言っているんだ?終身雇用なんてとっくの昔に崩壊しているじゃないか?」といったことをネットで書いていました。

しかしあの発言の本意はそこではないはずです。本当に言いたかったのは、

「終身雇用は無理、逆をいえば企業側は終身雇用をせず途中でリストラなどすることが前提になる。つまり、もっと容易に企業側が解雇できる仕組みを作る」

といっているのだと感じました・・・。

つまり極論でいえば、アメリカナイズに「合法的に即時解雇」の時代がきてしまうのではないか・・・と危惧しています。「危惧している」というのは、私はそういう時代は嫌だなぁ・・・と思っているということです。

しかし若者から定年までの全体で「労働者」を守る仕組みを日本全体で納得しないと、冒頭で紹介した、

「45歳以上はリストラしたい」+「高技能の若者が欲しい」=「子どもが増えない」

の記事でいっていることへの対策はできないのです。

では、アメリカとかではどうやって結婚をして子供を生み育てているのでしょう?

「アメリカでは◯◯をしているから」とはっきり言語化できないのですが「自分で生きていく」という感覚が日本人よりも強いはずです。

例えばアメリカでは日本のような「健康保険制度」がないので、ざっくり言ってしまえば保険料は常に100%です。(アメリカの公的な医療保険制度のメディケア(Medicare)とメディケイド(Medicaid)とかに入っている、入れる人もいますので例外は当然あります)

そういった背景があり、それが前提の国で生活をしていて、何が起こったときの事を常に考えておく必要があるので「稼ぐ・貯蓄する・資産運用する」ということへの執着が強いのかもしれません。

当然国家間の任意の事象の比較は、その事象の元なる背景なども様々に関係しているので、単純に「保険制度」といったものだけでは比較できません。

前述のブログ記事中に「頑張って大企業に就職してさえ、子どもを育てる盛りの時期にいきなりリストラされて再起不能になりかねない社会とは、『優秀でなければ子どもをつくるな』という圧力がかかっている社会にも等しい。」という意見があります。

これは暴論です。「企業が従業員を数十年、場合によっては定年までの期間に渡って雇用を守る」という「終身雇用」ができていたのは、そもそも高度成長期の数十年間だけで、最近の一瞬の話です。

「終身雇用」も今ほど転職がカジュアルではない世相=「就職したら定年まで勤め上げる」という価値観の元で成立していた部分もあります。

そもそもが就職は「労働契約」なので、杓子定規な言い方をすれば「労働するから対価を払う」というだけの話です。結婚・子供が生まれるといったことを人生を守るのは自分自身です。「仕事力」での判断なので、「子どもを育てる盛りの時期」は人によって有るか無いか、いつ発生するのかも分からないものなので、雇用そのものとは厳密には関係ない話です。

先程の話でいえば「大企業に入ることが人生のゴールではなく、優秀になれるかは別としても生きている限り継続して頑張り続けなければならない」ということではないでしょうか。

もっと言ってしまえば「頑張って大企業に入ってさえ」という言葉が出てくること自体が「詰め込み方教育で、入試をクリアするための勉強」に終始してきた功罪と思います。

大企業に入るための「頑張り」というのも、人生の時間軸で考えればたかが「数年」のはずです。人によっては私立幼稚園入試から・・・という人もいるかもしれませんが、比較的多くの人にとっては就職を考えた「大学入試勉強の努力」と「就職活動の努力」の数年ぐらいのはずです。

とするならば、たかだか数年程度の努力の結果の就職で、残りの人生が全部保証される・・・と考える方が虫が良すぎますし、結局「企業に生涯養ってもらう」前提で自分の人生を考えていると言えます。
今の時代に仮に雇用者側が「就職したら生活を守ってくれ」とお願いしてくるなら、企業側は「転職しないで定年までしゃかりきに働いて勤め上げてください」ということを言ってくるはずです。等価交換ですから。

それは「社会」の問題ではなくて、就職してから時代の要請・変遷に適応できる努力をしていない「個人」の問題です。

海外の大学の入学・卒業がよく引き合いにだされますが、

日本の大学は入るのが難しいけど、入ってしまえば出るのは簡単

海外の大学は入るのはある程度簡単だが、出るのが難しい。それは大学在学中にちゃんと勉強をしなければならないから

が正にそうではないでしょうか。

これからの時代、大学でも就職には「入るため」に頑張るのではなく「入ってからゴールまで頑張り続ける」ことを個々人が覚悟しなければならない、そういった時代に変わってきているのです。

バブル崩壊後の社会人世代が今の時代を作った?

また決して今のような時代には急になったわけではありません。

変化という点ではこの数年〜十数年の間に多くの生き方を認める価値観が生まれました。

「ダイバーシティ」「頑張って働くことだけが美徳ではない(プライベートを優先するべき)」「ワークライフバランス」などさまざまな考え方や、「結婚」や「子供を産むということ」に対して懐疑的な考え方、そういったいろいろな要素が複雑に絡み合い、どれが発端という訳ではないですが、個々人の「こうしたい」という要望だけを重要視しすぎた故に、旧来の日本という社会の仕組みが「仕事上で優秀な人」しか維持できなくなってきてしまっているのです。

これはだれか一人だけの責任ではありません。おそらく現在の30代中盤から50代前半の世代の生き方がそのような時代にしてしまったのでしょう。

もっと言ってしまえば、2000年直前のバブル崩壊後から2009年のリーマンショックに至るまでの不況、戦後から伸び続けてきた高度成長が止まり、先行きが見えづらくなった時代、そこに「インターネット」という匿名で自分の価値観を自由に言うことができる場ができ、実際には極めて少数派、もっと言えばいち個人の意見・感想が、それを見た多くの人にとっては文字面としてとても共感しやすいものであったことで一気に拡散し、共感を得、それがさも全体の意見であるかのように感じとれてしまう、というような流れを作ってしまいました。

その中でも更に耳障りが良く、大衆受けしやすく、承認欲求を満たしてくれるような意見は一層拡散し、「権利に対応した義務を満たす」ことが極めてないがしろになっていってたのではないかと思っています。

最近この働き方については、SNSの記事などを見るとどんどん極端な意見が巷を横行しているように見え受けられます。

メディアも「大衆受け」を考えるのでニュース記事のタイトルに「芸能人の○○さんの意見には批判的な意見が出ています」みたいなタイトルになる訳です。
しかし、よくよく考えたらこのタイトルおかしいと思いませんか?

「個人の意見は尊重されるべきだ」という時代である上に、そもそも「人の意見に100%賛成か反対なんて存在しない」のだから「批判的な意見が出る」のは当たり前です。
ですが、このタイトルの付け方は「批判的な意見をいった人は世情を分かっていない悪者だ」だと思わせんがばかりです。

そしてそれに踊らされる我々もいけないのです。

事象には常に2つの見方が存在がする

事象には基本的には2つの側面の見方が必ず存在していると私は考えています。

例えば、新卒説明会でも言っていますが「ベンチャー企業」の捉え方があります。

弊社のような小規模でやっているベンチャー企業は新卒採用において「我々はベンチャー企業なので若手から裁量権がある働き方ができます」といったことを謳い文句として言います。

これは一見正しいのですが、ある側面から見れば「ベンチャー企業は重要な判断をする人材が少ないので、若手であっても重要な判断をするような仕事を担わなければならない」という見方もあるわけです。

これは良い悪いの話ではありません。
このように事象には必ず2つの見方がある、ということを理解しながら今の時代を自らの価値観で判断していかなければならないということです。

SNSで流れている一方の観点からの聞こえの良い話がその事象の全てであると思い、さらには自分の権利だと思い込んでしまうのは極めて危険です。

「権利が自分にとって都合よく」変化したら、必ずその対になる「義務が重く・強くなる」のは道理です。

権利と義務のバランス
ですがSNS等で流れている記事ではその「権利」部分だけが極めて誇張されているため、その裏側に隠れている「義務」がみえづらくなっています。

つい先日もこのようなニュース記事がありました。

連休明けに“メンタル不調”の懸念 生活リズムが大事

これは「(2019年のGWのような10連休といった)超長期の休みがあると、休み後に仕事に戻ったとき、仕事へのエンジンがかかりづらい。なので企業側は長期休暇のあとにはいきなり仕事を全開で従業員にやらせるべきではない」といった主張です。

長期休みモードから抜けきらないまま仕事を始めたら、確かにすぐにエンジンがかからず調子が取り戻らない、ということはあるかもしれません。「休み明けは、どうにも体調がすぐに戻らないし、仕事の感も鈍ってるんだよな・・・」という人もいると思います。

そういった人たちにとっては、上記の記事でいっていることは「そうそう、正にそうなんだ」と受け入れやすいものでしょう。

しかしそもそも「休み」とは一体なんでしょう?

仕事の質を高めるためという側面も休みにはあります。休暇の間に旅行やスポーツをすること、一向に構いません。また働き方改革では「適切に休みを取るべき」ともいっています。

しかし休みを取った後にも会社としてペースを落として仕事を始るようにする、つまり「休み明け休憩」とでもいうべきものが求められるのであれば、一体「休み」はどのように設計すればいいのでしょうか?企業側が「GW明けに仕事に戻れるように、必ずこのように休みなさい」と命令すればいいのでしょうか?

産業医の経験が長い同社メディカルアドバイザーの深沢健二医師は「働き方改革が進む中、企業には社員の休み方への健康面のケアも求められる。連休明けにいきなりフル稼働させないような事業計画を立てることが必要だ」と指摘。従業員に向けては「10連休の残り2~3日は、朝起きして生活リズムを元に戻すことを心掛けてほしい」と助言する。

ということがリンク先の記事に書かれていました。

「休み明けフル稼働させないように企業側が設定する」というのと、「このように休みなさいと企業側が業務命令する」は受け取り方の気持ちが違うだけで結果は同じことです。

上記のリンク先の方が言っているのは「従業員というのは長期の休みの過ごし方を自分でコントロールができない人達ばかりなので、企業側でどうにかしなさい」といっているのと同じです。
それを「従業員の気持ちを考えるべきだ」という側に論点にすり替えているだけです。

それは自分の人生の「ワークライフバランス」の「バランス」が取れているといえないのではないでしょうか?

ワークライフバランス

ワークライフバランスという「バランス」を自らで取っているのか?

「責任と義務」においてそもそもワークライフバランスを考えるならば、働き方改革で「ライフ」側の対策を取っている以上、「ワーク」側は8時間なら8時間は必死に働くべきです。

だからこそライフとワークのバランスが成り立つのです。

ですが今のワークライフバランスは「ワークをゆるゆると無理しないようにやる」という部分だけが注目されていないでしょうか?

そして、昨年のブログでも書いている通りで、すでに欧米では「ワークライフバランスは古い」という話になりつつあり、「ワークライフインテグレーション」という考え方が出てきています。

ワークラーフインテグレーションとは、ワーク(職業生活)とライフ(個人生活)を別のものと分けて考えるのではなく、人生の構成要素としてあえて境界線を設けず柔軟、かつ統合的にとらえることで、双方の充実を求める働き方のこと
https://bizhint.jp/keyword/100838 より抜粋)

先程書いた「休み明け休憩」「長期休暇明けのスロースタート」といった対策を本当に企業側が求められるのであるとすれば、それを聞いた一般的な企業側では「長期休暇も提供する、休暇後の仕事のペースもゆっくりにする、だから結果を出してくれればいい」と「完全結果主義」がいっそう加速されることになると思います。

最終的には「出勤も休暇も特に何も言わない、ただ契約としての内容の結果を出してくれればいい」という企業もでておかしくありません。そしてその結果は今我々が思っている以上に定性評価を除外した「定量評価」の方向に行ってしまうはずです。

これはぐるっとまわって、労働者に一層厳しい環境として跳ね返ってくることになると思います。要は「能力が低い人は低評価」の流れです。

なぜならば、

  • 数字で分かる結果を出せない人は給料をどんどん下げる
  • なぜなら正しく休まなければならない休みは提供しているのだから、それに見合う結果を出すのが仕事だ
  • その仕事で結果を出せないのであるから、報酬は支払わないだけ

となってしまうからです。

権利に対しての義務というものが等価であり、権利が増えたのであれば、その分の義務も同じく増えてしまう、という話です。

今後「日本で働く」ということがどう変わっていくか?

突き詰めていくと「働き方改革」が推し進められる時代、「優秀であること」は程度の差はあれ対価を得るためにどうあっても逃げられないことになると思います。

なぜならば、日本人の労働人口が減り、外国人労働者がどんどん日本に入ってくることになるはずです。

そうしたとき、仕事先を求める競争は、日本人同士ではなく、日本に働きにきている外国人も含めたものになっていきます。

東京都内でいえば、コンビニの従業員の過半数は外国人の方です。
「たかだかコンビニのバイトの話でしょう?」と思うかもしれません。ですが、これは「大差に繋がる微差」です。

今コンビニで働いている彼らは自分の国に帰ればその時点で2カ国語以上で日常会話ができるという優秀な人たちです。

そういった人たちが都内のコンビニに溢れています。
この「微差」が数年後にどうなっているかといえば、おそらく現在の日本のおそらく月給で250,000円から400,000円位は平気で稼ぐような方が外国人の方に変わっていってしまう「大差」になると感じています。

現時点では、外国人労働者の方々の自国と日本の文化の違いから来る問題で直接的な雇用が急増しないかもしれません。ですが20〜30年前に比べれば、外国人の日本文化への理解度は高くなっています。

そうなれば企業側は生産性に対して目を向けることになります。

外国人の方々との協業のイメージ

日本人が「優秀でない日本人は不要ということか?!」といくら声高にいったとしても、その日本人よりも優秀な外国人がいれば、そちらを雇用する割合は徐々にでも必ず増えていくでしょう。

企業というものが「利益を追求する集団」である以上、

  • 同等の能力なら安い賃金で働いてくれる人
  • 同じ金額なら能力の高い方

を採用するのは当たり前の話です。

アメリカではそもそも「純粋アメリカ人」という感覚がないので、人種も何もなく能力で生きていく文化が浸透しています。(黒人差別というのはあるかもしれませんが・・・)

そういった文化で育っている外国人の方々は自分たちの給料を稼ぐために、権利よりもまず自分が何ができるか、企業側に何が求められているか、ということを考えます。そしてそれを達成するための努力を惜しみません。(逆にそれ以上の事をしない、という側面もあるとは思います)

日本人が「無茶な働き方はやめるべきだ!」「働き方改革をもっと推し進めるべきだ!」といったような耳障りの良い言葉だけを連呼し、自らに課せられている義務を果たさないようであれば、外国人労働者の方々との現在の「微差」は今後ますます「大差」となり、日本人にとって働きづらい国になっていくはずです。

それは気がつけば圧倒的に取り残されてしまうほどの差になってしまうでしょう。

「働くべきタイミングで働けなかった」未来

またジャパンクオリティである「安価で高性能、高サービス」は他ならぬ日本人自身が求めた結果です。

飲食店やタクシー、コンビニなどで顧客の立場で「お客様は神様だぞよ」といってしまう日本人は「自分はお金を払っているのだから、自分が思うサービスを提供されるべきだ」と思い込んでいるのでしょう。
ですが、自分が支払っている対価をそのまま逆の立場になったら?ということは考えません。

100円のモノを買ったら100円のサービスしか得られないのです。

安価な牛丼屋さんにいけば懇切丁寧な接客は受けられないし、時には待たされるのです。なぜなら消費者が「安い牛丼」を求める以上、安い労働力=アルバイトしか確保できず、結果としてアルバイトだけでのオペレーションになるのは、単純な算数です。

つまり、結果として「安価で高品質、高サービス」を求めすぎた消費者側が今の時代を作ったのです。(高度成長期のイケイケ感でそれに応じた企業も良くはなかったと思います)

そして何より危惧されるののは、この働き方改革によって「働くべき時に働けなかった」「働きたかったのに働けなかった」「頑張って努力するべき時に頑張ることができなかった」人の未来です。

やがて体力・気力的に頑張るのが難しくなってきた40代後半、結果を出せず、さらに若いうちに付けておくべき地力や経験も身につかず、正論での言い訳グセで自分のプライドを守ろうとする人が生き残れる仕事は多くはないですです。

成長のための頑張って山を登るイメージ

そういった仕事の良し悪しではありません。ただそれまでの仕事内容と、得られていた給料からは大きく変化せざるを得ないだろうということです。

数年〜十数年の「失われた時間」を取り戻すのはたやすいことではないはずです。ましてや個々人で言えば「失われた時間」の間に年齢=体力や気力は絶対的に下がっていってしまい、失われた時間を取り戻すのに、若い時の数倍から数十倍の努力と時間が必要でしょう。

それ以外にも年齢を重ねることで、多くの人は「可処分時間」が少なくっていくことも影響します。

若いときには責任もやるべきことも少ないがゆえに「仕事力を身につける」時間があります。ですが、年齢を重ねれば人によっては結婚や子供を持つことで「自分が好きに使える時間」がどんどん減ってしまいます。

企業側が無茶な働き方をする時代は終わろうとしています(まだ残っているかは別として)

ですが逆にいえば、これまでは「企業側から無理やりやらされていたことで、気がついたら身についていた力」を、自らの努力で身につけないといけない時代になったのです。

「気がついたら力がついたのはそれができた人であって、できなかった人は今までもいた!それは結果的に力がついた人の言い分だ」という意見があると思います。

そのこと自体はその通りなのですが「企業側の無茶な働かせ方」はNGになった今の時代、昔のことをいいたいのではなくて、これからの時代は「自助努力」に委ねられるようなったという点です。

自ら就業後に「副業」「学習」といったことに投資をしていかない人がどんどん取り残される時代になってしまった、ということです。

この最終的に「今後は自責に任せられている」という部分は、恐らく世間からの波風がすごく立つためほとんど触れることなく、先に働く人の「権利」側にフォーカスをしている流れにしているのではないでしょうか。

この事に気がついて「自分の能力を上げるための動き」をしている人は確実に増えてきています。「失われた時間」の可能性にいつ気が付き、いつ対策を打つか?の分水嶺がまさに今です。

成長のための正しい負荷のかけ方は自分で実践して見つけなければならない

私は今回の「働き方改革」は「労働者総ゆとり化」計画とさえ思っています。

  • みんな個々人の意見はすべて認められるべき
  • 他人よりも極端に頑張る人は排除されるべき(最近の価値観で「頑張るのは格好悪い」の延長)
  • 古き良き「1億総中流」の再興を目指す

ようになっているように思えてなりません。

しかし残念ながら資本主義は「ルールの上で正しく考えた」人が勝ってしまいます。

「ルールの穴を突く」方法で勝った人には、たしかに正義感的に言えば「それはいいのか?」と苦言を言いたくもなります。ですがその「ルール」自体も人間が作っており、万人に完璧に平等なルールなぞ、そもそも作りようがありません。

そもそも世の中には「不平等と理不尽」であふれています。
それが大前提であり、それ自体は受け入れなけれなりません。

人の作ったルールでなくても、生きていれば自然の驚異の理不尽さ、時のタイミングによる不公平さはいくらでも溢れています。

生きるとはそういうものだと思います。小賢しい理由や理屈で台風や地震に「理不尽だよ、そんなのは!俺が何をしたんだよ!」といっても答えは返ってこず「運が悪かった」で片付けられてしまいます。

そういった理不尽さの中で、生きるための方法論を自らの智慧で見つけていく努力をしなければ、残念ながら「結果を出すことができた人」と比べれば、何かしらの指標による優劣がついてしまいます。

これを仮に全て平等にできたとしたら、今度は本当に「どんな努力をしても報われない世界」になり、ますます人々は向上しようとする意志と意図を失うでしょう。

ですから、人は尊厳を持って努力し競争の中でもがく力を持たなければ生きていけないのが本質のはずです。

成長するために「頑張る」「努力をする」というのはどうあっても必要なことだと思います。さまざまな能力は、一定の負荷をかけなければ成長することができないと考えます

そしてその負荷は「成長するために正しい方向」であることが重要だと思っています。

この「成長するための正しい方向」がどこなのか?ですが、これが大変なのが「人によって違う」ことです。人のある時点において「どのように努力すれば成長できるのか?」は、

  • それまでの経験
  • 体力
  • 年齢
  • 身体的な強度
  • 精神的な強度
  • その時費やすことができる金銭的なもの

などなど・・・さまざまな個々人の事情が影響していきます。

仮にイチローに「こうして僕はやってきたよ」と言われても、そのやり方は「イチロー」にとって最適でなのであって、第三者には当人ほどの最適化はありません。

ある程度の「最大公約数」はあるかもしれませんが、それが分かっても成長するための最適な努力かは本人が実践してみなければ分からないのです。「ナレッジゲッター」が成長できないのはこのためでしょう。

経験には密度があり、指数関数的に増えていく

経験にえるために負荷をどのようにかけるか?を考えるとき、私が意識しているのは「経験密度」という考え方です。

「経験を積むためには時間をかけなければならない」と思う人もいると思います。ある意味ではこれは正解です。

しかし経験には「単位時間あたりにどれだけの情報を経験に転化したか」という観点において「時間✕密度」なのではないかと思っています。

同じく8時間/1日の業務をしたとしても、1年間のんべんだらりと過ごしている人では、半年間必死になってやった人の経験には追いつかない、ということが起こりえます。

いってしまえば「集中力」です。「人の集中力は◯分しかつづかないものだ」という話もよくあります。それはその人にお任せするのでなにが正解かは個々人の判断が必要ですが、続く集中力の限り集中して眼の前の物事に取り組んでいるか?という話です。

経験はそもそも「次にあのタイミングで使おう」と使い先を想定しながら経験することだけではないはずです。「いつか使うかも?」という経験も多分にあります。

それを考えたら、極論「起きている間に目の前に起こる事象はできるだけ意識的に過ごし、無意識で過ごす時間をへらす」方が良いと思っています。

そして、経験が積み重なるごとに、指数関数的に「単位時間あたりで積むことができる情報量が増える」特性を持っているいます。

ある事象において全くの素人とプロの人では同じことをしても、そこから得られる情報量に差があり、プロの方がより一層細かく深い内容をえることができるはずです。

ですので、仕事での成長のための「正しい負荷」とは、必ずも「長時間働かないといけない」というだけではなく、時間あたりの集中力をできるだけ長く保つようにすることでもあります。

努力が正当な対価に転換されなくなってきた時代

「ブラックな働き方」の一番の問題点は「努力をしているにもかかわらずそれが成長や報酬につながらない」という部分ではないでしょうか?

もちろん労働基準法に違反した長時間労働による健康への害も理由でしょう。ですが、本質的には長時間働いてもそれに見合う対価が得られないということが大きな問題の発端になっているように思えます。

高度成長時にも病名は付かずとも、現状と同様のことは起こっていたはずです。働き方だけで言えば、もっとあからさまにブラックな状況が日本中そこかしこでありました。

しかし当時は働いた分だけ「お金」になっていました。

タイムイズマネー、まさに労働時間がお金に変わっていたので、苦労に見合う対価が得られていたのでブラックな働き方は確かに存在していても今ほどの社会問題になっていなかったのです。

しかしバブル崩壊後「働いても対価に結びつかない」ことが社会不満につながり、「ブラックな働き方への非難」というはけ口を設けざるを得なくなったのだと思います。

この状況は第4次産業革命の特徴ゆえの事象です。

第三次産業革命までは生産性の向上はそのまま収入の増加に跳ね返ってきました。しかし第4次産業革命以降、生産性の向上が収入に結びつかなくなっています。

そういう時代に我々は生きているのです。これも良い悪いではなく、単なる事実です。そこに文句をいっても自然現象に唾を吐くのと同じ全く意味がありません。(もちろん政治家などになって変える手段はあります)

この時代で「どう生きるか?」を考え出さなければならないのです。それ以外に考えるべきことはありません。

近年の様々なことに対してでている意見は一見正論で正しいように思えるかもしれませんが、突き詰めていけば総じて「努力をせずに結果が欲しい」「権利を主張して義務を果たさない」といった結論に帰結していないでしょうか?

「リーガルハイ」というドラマの第9話で、堺雅人演じる主役の弁護士、古美門研介が次のようなセリフをいっています。

誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていければ楽でしょう。

しかしもし、誇りある生き方を取り戻したいのなら、見たくない現実を見なければならない。深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない。戦うということはそういうことだ。愚痴なら墓場で言えばいい。

ドラマの一部の抜粋なので、ミスディレクションを誘う引用になっているかもしれません。しかし「生きる」上で「見たくない現実を見て」「深い傷を負う覚悟がいる」という言葉は真実だと思います。

自責で考えられるか?

1995年ごろから今までの25年ぐらいはおそらくこれまでのどの時代の変化よりも環境が急速に変化していると思われます。

その速度は人間がこれまでなんとかついてきた第一次〜第三次産業革命までの速度を大きく超えているのだと思います。だから「変化」についていけないパニックから「他者への批評・批判」をしなければ自己が保てないのではないかと思います。

これは「他責にすることで自己の責任から免れると錯覚している」の状態です。本当にブラックな労働環境は別として、多くは他責にしても自分の責任は何も変わりません。

そして基本的に人は選択の自由を持っているはずです。「日本に生まれたくて生まれたわけではない」ということをいう人もいるかもしれません。ならば外国に行かないのでしょうか?

多くの人は行かないのではなくて、行けないのです。

先進国の中では比較的に「定性評価」なのが現状の日本でしょう。

海外の先進国にいけば、今よりも「定量評価」にさらされることになるはずです。
なので、海外にでれば「完全結果主義」の中で自分は評価されてしまい、自分が守れないからです。

日本にいれば誰かをエスケープゴートにして正論で批評・批判をし、近しい境遇の人から「いいね」をもらえる文章でネットに書けば自分の承認欲求やアイデンティティは保たれるから楽なのです。

しかしそれは恐らく「茹でガエルの法則」にいることになり、ゆっくりと死に向かってだけです。

なぜなら他者批判・他者批評は自分を成長させることは全くなく、他者を自分より下にすることで相対的に自分が上であると錯覚するだけだからです。

また他者との相対評価を軸に置いてしまうと「他者より自分が上か下か」ということが延々と続くので、幸せになるどころか不安の方が大きくなってしまうはずです。

私は最近では「SNS自体の仕組み」には興味がありますが、そこで発言されている「個人的な発言」「日記的な発信」にはほとんど興味がなくなってきました。

見たとしても「◯◯さん、そんなことしてるのか」以上ではなくて「いいなぁ」とか「羨ましい」という感覚がかなり減りました(私も人間なので、ゼロではありません・・・)

この「他者批判」「他者との相対比較」ですが、私はこれをかつての役者の修行時代に自らやっていました。稽古が終われば、気の合う仲間と稽古を振り返り「◯◯の芝居って✕✕がだめだよね」と他人のアラを肴にお酒を飲んでいました。

しかし、ある時「他の役者の批評や批判をしても自分が上手になっているわけではない」ということに気が付きました。

その後は、極力他人の芝居や演技に批評を行わず、他人の良い点、自分にはできない演技だけにフォーカスし、それがどうすれば出来るようになるか?という事だけを意識するようにしました。結果でいえば、それからの方が遥かに役者として成長ができました。(と言っても役者では立身出世できませんでしたが・・・)

他責で考えている限り人は成長はできないのです。

自責で考える

そして「仕事」といったレベルの話では、評価は常に上の立場の人がするもので、同レベルの人や、ましてや自分の評価などは何も意味を持ちません。

また世の中に「完全」「完璧」もありません。

ですから自分の周りで起こっていることの原因の全てを背負える訳ではありません。それでも、極力自責で考えて行動でしつづける人が「時代の変化」に対応できる人のはずです。

もし世界の、日本の、会社、所属しているコミュニティのルールが納得できないならば、自分がそれを変えられる立場になるしかありません。

昔「踊る大走査線」というドラマの中でいかりや長介さんの演じた和久刑事がいったセリフが今でも思い出されます。

「正しいことをしたけりゃ偉くなれ」

自分が「正しい」と思うことをするならば、それができる立場にならなければ、すべて口だけである、というセリフです。その立場になれないならば「正しい事をやらせてくれる場にいく」か「今いる場で頑張る」しかありません。

ここまでの記述の中で「いい悪いではない」「単なる事実である」「そういう時代だ」「受け入れるしかない」ということを何度も書きました。

これは私にとってはある意味「諦め」です。ですが、個人的には「ポジティブに諦めて」います。

どうせ受け入れなければならず、今すぐどうこうできないならば、現状を受け入れ、その上でどうするか?を考える方が精神衛生上健全と考えているからです。

文句をいって周りが変わるならばいくらでも言います。疲れてる時は僕も文句の一つも言っています。どちらかというと、あまり口に出しませんが、愚痴っぽい方ではないかと思っています。

ですが、それでは何も変わらないのです。

変わらないから「文句をいうこと」で溜飲を下げる・・・とったこと自体を諦め、「しゃーない、じゃぁ、どうしようか?」と考えています。

それどころかむしろ最近の私の思考の癖となってきている「クリティカルシンキング」の結果、というのが実体だと思います。(なお「クリティカルシンキング」の話は2018年8月4日に名古屋で開催したWCAN2018「クライアントに採用してもらう為、企画作りに込めるモノ」のセミナーで話をさせていただきました。再演も受け付けています)

不自由さの中から自由さを選ぶ

このように考える切っ掛けになった言葉があります。それが「不自由さの中から自由さを選ぶ」という言葉です。

これは、私が役者時代の恩師から言われた役者の心得のようなものです。

役者には「台本」という絶対的な制約があります。
恐らくどれだけ有名になっても「台本を勝手に変える」ことはご法度のはずです。

役者は「脚本家の考えた台本」をどのように演じるか?が仕事で、「脚本家の台本を自分が想定しているキャラクター側に引っ張ってセリフを変える」ことはしてはいけないのです。

どれだけ役者が「このセリフってどういう気持ちから言ってるんだ、全然分からないぞ?!」と思ったとしても、それを自分で消化して昇華しなければならないのです。

これが「不自由さ」です。

その台本という「制約の中」でどういった演技=自由さを表現するのか?が求められるのが役者である、と教えられました。

しかしこれは仕事であろうとなんだろうと同じではないか?と役者を辞めてから気が付きました。

自分で「変えられない」制約はどの人も持っています。そこにどうこういうのではなく、その中で与えられた自由の範囲で何を考えて工夫をするか?というのは、今の仕事での生き抜き方と全く同じです。

なので、先程の「自責で考えられるか?」という下りと合わせていえば、

  • 日本が決めたルールの中で、他者の批判・批評をすることなく、どのようにして自分自身の価値観で判断をしていくか?
  • 今後起こり得る「最悪」のケースを想定したときに、自分はどのように考え動いておくのが最善なのだろうか?

ということになります。

変わり始めた時代は戻らないからこその「ポジティブな諦め」

時代は変わったのか?と先ほど書きましたが「変わりつつ」あるのは間違いないと思います。もっといえば、時代は常に変わっています。

「時代の変わり目」という意味で象徴的なニュースで、先日「デジタル手続き法案」を発端として印鑑の関わる業界団体が反対の声があがった、というものがありました。

ですがこれもいい悪いではなく、恐らく近い将来「印鑑」はデジタル化され、捺印はごくごく少数になるはずです。そうなれば印鑑を作る仕事自体が減る、廃業をする人が出てきてしまいます。近視眼的には確かに問題です。

同様の例では「ブライダルカメラマン」の例もあります。
今後の結婚式場では、ブライダルカメラマンの代わりに天井などに「笑顔センターがついたデジカメ」を設置して、デジカメが自動的にどんどん写真を撮っていく、という話が出始めています。

さらに昔でいえば「馬車→自動車」への切り替わりがありました。
あるセミナーで見せてもらったのですが、アメリカのある大通りでは1900年には写真中の殆どは馬車で自動車は1台だけでした。ですが、同じ場所を1912年に撮影したら、馬車は「1台」だけであとはすべて自動車になっていました。

それまで数百年の間、輸送手段としてメインだった馬車がたった12年でほぼなくなってしまったのです。
馬具メーカーの人がどれだけ頑張っても、自動車の時代になったら馬具の需要は縮小してしまうのです。当時馬具メーカーの人が、自動車工場を壊しにいった・・・という話もあるそうです。でも時代が「馬車」に戻ることはありません。

こういったパラダイムシフトが起こってしまうと、既存の仕事に携わる人がどれだけ努力をして腕を磨いて能力をあげても、そんな事自体一切関係なくなってしまいます。

馬具屋の例でいえば、先見の明があった会社は「鞄」屋などに仕事替えをしました。

今や有名メーカーの「HERMÈS(エルメス)」「GUCCI(グッチ)」は元が馬具メーカーです。時代に「適する」ために、馬具メーカーから革の縫製技術を応用してカバンなどを作るメーカーに変わり生き残ったのです。

これも「適者生存」です。

今そういった話でいわれるのは「AI」ではないでしょうか?
ですが、別に今に始まったことではなく、過去も仕事は新しい産業によって奪われてきました。それと同じ変化が、今はたまたま「AI」が矢面に立っているだけです。

人工知能が人の仕事を大きく変えていく

これまで「特定の産業が大きく変わる」時代でしたが、IT化によって「かなりの量の産業が大きく変わる」時代になっていくでしょう。

また人間の寿命が伸び、労働ができる期間も長くなっています。30年前ぐらいまでのように、1つの仕事を「自分の生涯の仕事」とすることが、社会の変化のスピード対して物理的に無理になってきているのです。

だからこそ、この「働き方改革」の猶予期間の間に今後どのように生きていくか?を考えるべきです。
そして今の状況に甘んじて「頑張るべきときに頑張らなかった」ことが将来「失われた時間」にならないようにすることが、「ポジティブな諦め」において重要だと思っています。

その意味では本心は「そこまでルールでガチガチにせず、企業側と従業員側で双方にとって成長ができる方法をもっと真正面から検討」ができればいいのに、と思っています。

個々人が自分の人生にもっと真摯に向かうようになり自責で考えることができれば、できなくはないはずです。

サービシンクで代表をしている名村が社員となってくれたメンバーに伝えるべきは「これからの生き抜き方」だと思っています。ここで書いたていることは半期に一回に総会や、毎月の月初会、また仕事の中で常々伝えていっていることです。

私の考えが万人に当てはまることはないと思います。「それは強者の理論だ」と思う方もいるかも知れません。

しかし大なり小なり「見たくない現実を見て」「深い傷を負う覚悟を持って」生きていかなければなりません。

ですので、サービシンクではこういった「今後をどのように行きていくか?」を考える機会、「自分の人生と向かう時間」を作るための活動として、希望者を対象に青森の禅寺での一泊二日の「坐禅研修」といった活動をおこなっているのです。

ですが、もし共感してくれる人にとって何かの一助になればと思って書き記しました。皆さんの何かの参考になれば幸いです。

また今回のこの記事ですが、共感をいただけたならSNS等でシェアしてもらえるととても嬉しいです。

またこういった事を仕事を通して一緒に考え共に成長をしていこうと思っている方を募集しています。ぜひサービシンクの採用情報ページからご応募ください!


不動産業界特化のWeb制作会社代表の名村のブログ

不動産業界特化でWeb制作・システム開発・不動産テック事業をおこなうサービシンク代表の名村のブログは下記からご覧いただけます。

会社の企業理念や実施している様々なことの意図なども含めて書き起こしています。

サービシンクの代表 名村のブログ一覧はこちらから


不動産業界のWebサイトのことで、お困りではありませんか?

不動産業界のWeb制作に特化し、戦略策定からサイト制作、システム開発から保守運用、さらにはA/BテストといったCRO対策までに強いWeb制作会社は多くありません。
我々は不動産ポータルから中〜大手不動産会社、地場の不動産会社までおよそ不動産業界のあらゆるサイトを手がけてきました。
不動産会社様のお困りの事象に一歩踏み込んだご提案が可能です。

お困りのことがあればお気軽にご相談ください。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

お仕事のご相談、採用、その他のご質問等は下記のフォームよりお問い合わせください。
2020年卒エンジニア採用につきましては、こちらのサイトからご応募ください。

ページTOP