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自分自身が使う言葉を大切にすることで生き方は変わる

2019/12/04 代表ブログ
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不動産業界特化のシステム開発(SIer)、ホームページ制作のサービシンク代表、名村です。

今回タイトルは少しいいすぎかもしれません(笑)

ですが、仕事においては人と何かしらの手段でコミュニケーションを取ることが必要になります。そこで必要になるのは「言葉」なのですが、この「言葉」というものについて今日は書きたいと思います。

多少精神的な部分になるとは思いますが、私が長く仕事をしてきて根底で大事にしていることでもあり、コミュニケーションにおいては最重要と思っていることでもあります。

 

身近に「負の言葉」が蔓延してきている

最近Facebook、Twitter、Yahooニュースのコメントなどに流れている文面で、いわゆる「批判・批評」の文章がものすごく多くなっていないでしょうか?

名村は個人的には「職業」としての評論家・批評家の方の記事はは全く気になりません。

それは「プロ」としての文章であり、そこには根拠などの部分もありますし、感情論的な部分があったとしても、それを説明している部分にはある程度「そういう意見もある」と思うだけの「文章力」もあります。

しかし、そうでない人が「代替案」を出さないまま「批評」「評論」をしている、というのを目にするのはものすごく苦手です。はっきり言ってしまえば「嫌い」です。

1994年ごろにインターネットができ、2010年ごろまでは恐らくそういった意見や表現、文書の多くは「2ちゃんねる」(今の「5ちゃんねる」含む)などの「ネットスラング」が許される環境の中にある程度収まっていたと思います。

ただここ数年、それまで「2ちゃんねる」などに関わっていなかったであろう人も、ニュースやちょっとした世間の事象に対して「大義をかざした尋常じゃないバッシング」をSNSやブログなどに書いているのを目にするようになりました。

店舗の人に居丈高な態度になるお客のことを「カスタマーハラスメント(カスハラ)」といいますが、それもこの話の延長線上にあるものだと思います。

そういった話は、

「自分は悪いことを言っているわけではない。悪いことを言っているわけではないので、言論の自由はあるんだから何を言っても良い、そもそも相手は悪いことをしているのだから。」

といったようなものではないでしょうか?

同様にネットニュースへの批評・批判をおこなう人は、「人の不幸は蜜の味」といいますから、自分がその標的にされるのは嫌だけど、自分以外、しかも直接自分が会うことがない人への批評・批判はきっと「楽しい」のではないでしょうか。

そしてこの手の「他者批判」は、上にも書いている通り「直接自分が関わることがない」という圧倒的に安全な場から行っているのが殆どです。

 

世間的な悪いことを「許せ」「見逃せ」という訳ではありません

こういった事を書くと「じゃぁ、社会悪を見逃せというのか?」といった反論があるかもしれません。そういう話ではありません。

もし実際に社会悪なのであれば、それは司法に任せるべきことだと思っているのです。
本当に日本において法に裁かれるのであればそれは法に任せるべきです。

しかし当事者ではないならば、必要以上に相手をバッシングも罵る必要も理由も本質的にはないはずです。

結局「完全に安全な立場から娯楽として意見風の批評・批判」をいうことに愉悦を感じてしまっているのではないでしょうか。

発言自体に責任がないので、いった結果に「その事象を改善する」といった思考がごっそり抜けているというか、「相手を許し、会心させる余裕」がまったくなく、ただひたすら追い込む発言になっているように思えて仕方ありません。

こういうことを書くと「ネットで書かれている言葉、発言なんて半分は洒落に決まってるし、それを真面目に受け取っている人なんてほとんどいないよ」としたり顔でいう人もいると思います。

また、「確かにきつい言葉を使っているかもしれないけど、そこまで言わないと伝わららないからあえて使ってるんだよ」という方もいるかもしれません。

しかし本当にそうでしょうか?
結局は言葉による集団リンチ以外の何ものでもないと思います。

 

ローマ教皇のいった「ゾンビの国・日本」という例え

2019年11月23日に38年ぶりにローマ教皇が日本訪日をしました。

その訪日中に様々な行事をされていましたが、中でも私の記憶に残っているのは11月25日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた「青年との集い」での講話です。(なお、名村は宗教的には無宗教です)

私自身が直接これを聞いたわけではありませんが、多くのニュースメディアで意訳が流れていますが、その講話の中でも「(多くの人が、人と上手にかかわることができずに)ゾンビ化している」という言葉です。

これは宗教的な意味を大きく超え、衝撃的であり、一方で極めて的確な表現であるとも感じました。

コメント等は「PRESIDENT Online」によくまとまっていると思いましたのでリンクを張っておきます。

ローマ教皇が「ゾンビの国・日本」に送った言葉 世界一他人に冷たい国に伝えたい事」(「PRESIDENT Online」)

しかし記事をみるまでもなく、日本人の極端な個人主義への傾倒と、その結果として自分以外の他者がどうあろうと構わないといった近年の風潮を風刺しているのが分かります。

そしてその一つの発露が「他者への逃げ道も用意せずに追い込むまでの批評・批判」ではないでしょうか。

 

コミュニケーションの全体は「相手がどう受け止めるか」

名村はもともとが役者であったことからコミュニケーションについてはこのように考えています。

コミュニケーションは相手がどのように受け止めただけが全てで、その言葉や表現の元となる発信者の感情は一切関係がない。

これは極論かもしれませんが、でも事実であると思っています。

仮にどういう表現であろうと発信者の「気持ち」の方が重要視されるならば、私は今ごろ「稀代の名優」のはずです。

なぜなら芝居をしていて演出にNGを出されても「演出家さん、貴方は違うっていうけど、私はそう『思って』演技をしているんです!」ってのが通じる訳です。

もっといえば役者はお客さまに「皆さん、僕のことを下手といいますが、僕はこの役の気持ちを考え抜いて芝居をしているのですから下手な訳ないんです」とすらいえるはずです。

でもそれは通りません。
演劇においては、演出家やお客さま側が「そういう演技に見えないもん」という評価がすべてなのですから。

とした時「人の感情を傷つけるであろう言葉」を相手に投げかけ、その結果相手が傷つけば、それは100%、その言葉を発信した人が悪いと思っています。

言った後に「いやいや、そんなの洒落だよ」とか「本当はそう思っていないのは分かってよ」というのは自分を保身したいがためのいい言い訳で、それ以上でもそれ以下でもないはずです。

仮に相手が被害妄想的に受け取ったのだとしても、相手がそのように受け止めるかの可能性を汲み取れなかった自分が悪かったと思っています。

 

演劇の世界で学んだ衝撃的な事実

名村は10代の終わりから20代の終わりまで、元々「演劇」に関する世界にいました。

それこそ「自己顕示欲の塊のような人間しかいない」世界です。
しかも当時は自身も周りもまだまだ20代前半・・・。言ってしまえば、最近流行りの「承認欲求」人間ばかりです。

そんな人間ばかりが稽古や本番で良い評価を得られないと、どうなるか?簡単です、酒を飲みながら「他者批判」を始めるわけです。

あいつの芝居は○○が全然伝わってこなくてだめだよなー。まったく演出も客も全然そのことわかってねーよ。

てな感じです。ご多分に漏れず名村もそんな人間でした。(まぁ、今もそれほど出来た人間ではないですが)

でもある時気がついたんです。

この話をすることで、自分が少しでも(役者の能力が)成長しているのだろか?

と・・・。

他人の批判・批評は「同じ世界・業界」の人がおこなうのは、これほど簡単な事はありません。なぜならその業界の専門家なのですから、アラはいくらでも見つけられます。

しかし、それは「批判・批評の結果、相手を下げることで、相対的に自分が上であると”思いたい”」だけです。

それに気がついた時、今までの自分が一体何をしてきたのだろう、自分はなんと小さい人間なんだろう、と本気で悩みました。

 

相手の「いいところ」だけを汲み取ることを考え始めた

そのことに気がついたあと、名村は基本的に相手が求めない限り「批評・評論」は行わないようにしました。

他人の芝居をみる時には「自分にはできないが自分がやってみたい演技・表現」を拾うようになりました。

そして「どうすればそれが出来るようになるか?」だけにフォーカスするようになりました。

するとどうでしょう?
あれだけ稽古の度に焦っていた気持ちが一気に軽くなり、全てが楽になりました。 当時、演出からの評価はもちろんまだ気になってはいましたが、同期のの中での比較はその一切が気にならなくなりました。

そしてその結果、演技者としての評価はむしろ上がりました。

最終的に私は演技者としては大成できませんでした。それは芸能の世界での資質の話なので致し方ないことです。

しかし、少なくとも演劇の世界にいて、私を一生支えるであろう「考え方」を身につけることができました。

 

気持ちから出てくる言葉、言葉から変わる気持ち

演劇の世界で気づいたこの感覚の結果、自分なりに一番大切にしているのは、

「自分が思考、実際に発音する言葉に可能な限り配慮する」

ということです。

先ほど「伝わった言葉を相手がどう受け止めるかが大事で、発信者の気持ちは関係ない」といいましたが、これは結果からみた内容です。

実際には、殆どの人にとっては言葉は「その時の気持ち」からでているはずです。

気持ちが荒んでいる時には荒れた言葉になるでしょう。
気持ちが穏やかであれば優しい言葉が生まれるでしょう。

でも一方で「使っている言葉」から気持ちは変わります。

優しい言葉を使っていると、気持ちが柔らかくなる。
批判・批評の言葉を使い続けていれば、愚痴っぽくなり、他者から見て嫌悪感を抱くような表情、面相になっていきます。

そしてそれはいつしか「習慣」と「癖」になっていき、無意識に「相手を傷つける言葉」を選ぶようになっていきます。

実際「この人、以前はこんなに厭味ったらしい顔してなかったのに、なんでこんなしたり顔で人前で話をするようになったんだろう?」と思ってしまった方に会うこともあります。

それもあり、私は「実害を被る相手とのディベート」以外は、自分が使う「言葉」を意識して選ぶようにしています。

それこそ音として発する言葉以前の「思考」においても「ネガティブな単語」を極力思い浮かべないようにしています。

そして可能な限り「相手への感謝や敬意を表す言葉」「丁寧な言葉」を選んで使えるようにしたいと思っています。

 

使う言葉を変える、気持ちが変わる

名村も商売をしているので、こういった話になると「お客様は神様です」的な話がでるかもしれません。名村はそこは盲目的にそのようには思っている訳ではありません。

しかし、星の数ほどあるシステム開発会社、Web制作制作会社の中から選んでいただいて、仕事をさせていただけている訳ですので、当然ながらご一緒に仕事ができているお客さまには感謝の気持ちを持っています。

その感謝の結果としてまず「使う言葉を変える」、その結果「気持ちが変わり」、結果として「気持ちから生まれる言葉が変わる」と考えています。

これは別に「きれいな言葉を使いなさい」とか「ポジティブな言葉だけを使うべき」という縛りではありません。批評・批判であっても「必要以上にキツイ言葉を使わない」というぐらいです。

結局は「自分自身が相手をどのように思うか?」のみが自分でコントロールできる事であって「相手にどう思ってもらうか?」を先に考えるべきではないと思っています。

「相手にどう思ってもらいたいか?」を先んじて考えだすと、それは「承認欲求」に繋がり、自己肯定のための材料として「相対的に自分の方が上」である状況を作るために「他者批判」の方向に進みます。

しかし「自分が相手をどう思うか?」という「自分自身の内面」にフォーカスしていれば、スピリチュアル的な意味とかではなく、単純に自身が「楽」です。

他のことに気を使うこともせず、シンプルに自分だけで完結する。
いろいろ早くて楽で、思考のための時間の使い方として効率的ですらあります。

これをスピリチュアル的な意味で捉えると「引き寄せの法則」とか「そういう考え方をしていると人とつながり・・・云々・・・」みたいな話になるんでしょうけど、そこは知りませんし、どうでもいいです(笑)。そういう思考をしていたからといって「仕事がいっぱいくる」とかの打算は分かりませんから。

ですが、少なくとも「この人の物言い、嫌やなぁ・・・」と思われることは減るはずです。

むしろ「この人の捉え方は気持ちがいい」と無意識的に他者は感じてもらえると思います。

人生、そういったつながりの方が遥かに相手を「思いやれる」と思うし、少し世界が平和になると思うんです。

 

ギスギスした世界は個人的には好きではないです

名村が現在も行っている「Webディレクター」の仕事は、その殆どがコミュニケーションです。そのコミュニケーションの前提は、やっぱり普段の思考に出てくる「言葉」をどのように選ぶか?だと思います。

テクニックや、ツールの使い方、ノウハウやドゥハウをどれだけ並び立てようと、相手を思いやれない人にはきっといい仕事はできないと思っています。

私自身は「いい仕事」「いい企画」は「いい人」から生まれると思っています。

人のことが思いやれる、優しさがある、人のフォローがすっとできる・・・そういった人から「いい企画」は生まれると信じ切っています。

そのためには「ゾンビ化」しないでいられる「余裕」が必要と思います。

今の日本は経済なのか就職率なのか時代の変化なのか教育なのか急激なIT化なのか・・・どれが先であとかは分からないですが、どんどん「余裕」がなくなっていると感じます。

もちろん国際社会の中で時代が変わり、働き方改革の名の下、これまでの日本人の気質にはおおよそ合致しない「完全成果主義」に急激変わりつつある今「余裕がなくなる」のは致し方ないのかもしれません。

実際私自身もサービシンク自体も「仕事」そのものに対しては厳しく向き合っているつもりです。

しかしその余裕の無さは自己防衛に繋がります。結果として「個人の考えを認めてもらいたい」思考が強くなり、実際そういった風潮です。

それ自体はいいのですが、自己の考えを認めてもらうためには「自分への批判・批評も受ける責任」が生まれます。にも関わらず自身の批評・批判となると「他の人も同じことをしている」「自分だけがそういったネガティブなコメントをしているわけではない」と、自ら同調圧力の中に安心を求めようとしています。

その結果、自分も気が付かないうちに「他者批判をする」思考に染まり、それは思考の癖となり、性格になり、面相にでてくるようになってはいないでしょうか?

稲盛和夫さんの言葉で、

人生·仕事の結果=考え方×熱意×能力

というのがあり、これを名村はLIFULL社(旧ネクスト)に在籍していた時に代表の井上さんに教わった言葉ですが、この言葉を聞いた時に衝撃を受けました。

  • 「熱意」は0からプラスしかありません。
  • 「能力」も0からプラスしかありません。
  • しかし「考え方」は「善悪」、つまり「プラス」にも「マイナス」にもなる。
  • 「プラス✕プラス✕マイナス」はマイナスに大きくなってしまいます。

足し算ではなく掛け算であることが重要で、「熱意も能力もある人」が悪いことを「考えれば」、社会的には褒められるものは決してならない。

だからこそ、名村はコミュニケーションの前提となる「考え方」が大事だと考えています。考え方を大事にしたいと思っているからこそ、私の2つある座右の銘の一つは「自立・自律」としています。

「自らの責任で立ち、自らを律する」ことを大事にしたいということからです。

この記事を読んでくれた方が居てくれたら、今からすこし「相手に感謝をし」「自分の使う言葉を選び」「その思いが相手にどのように伝わるのか?」に気持ちをはせてみてもらえるようになると物凄い嬉しいです。

またサービシンクにおいて、名村がとても大事にしていることとして受け取っていただければと思っています。


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